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都市環境デザイン会議 四国ブロック セミナー2015

千里ニュータウンから学ぶ

「まちの変貌とコミュニティ再生」

 

主催:都市環境デザイン会議 四国ブロック
後援:土木学会 景観・デザイン委員会、日本建築学会四国支部、日本都市計画学会中国四国支部
 

講師:太田博一

「講師略歴」 1976年九州芸術工科大学芸術工学部(現九州大学芸術工学部)環境設計学科卒業。(株)市浦都市開発建築コンサルタンツ(現(株)市浦ハウジング&プランニング)に勤務後、1993年に(株)太田博一建築・都市デザインを設立。住宅地計画、環境デザイン、まちづくりなどに従事。2012年より千里ニュータウン研究・情報センター事務局長を兼務。現在、株式会社 太田博一建築・都市デザイン 代表取締役、千里ニュータウン研究・情報センター代表
 

 
 

日時:2015年5月10日(日)13時~16時
会場:香川県文化会館(香川県高松市番町1-10-39)

[開催趣旨]

近代的都市を目指してつくられた千里ニュータウンは入居から50年が過ぎ、居住者の高齢化、家族形態の変化、新たな世帯の流入、集合住宅の建て替えなど、近年まちの更新は急速に進み、コミュニティや景観など生活環境にかかわる様々な課題が顕在化しつつあります。このような課題に対して地域の住民や行政は、「身近な縁(えん)」を再評価するなど自分たちが暮らすまちを住み続けたい魅力あるものにするための様々な取り組みを始めています。 このセミナーでは、千里ニュータウンの取り組み報告を受け、我々が暮らす地方都市でも起こっている同様の課題について一緒に考えます。

[構成]

あいさつ:重山陽一郎(都市環境デザイン会議四国ブロック幹事、高知工科大学教授)
進行:大西泰弘(都市環境デザイン会議四国ブロック、有限会社田園都市設計 代表取締役)
 
【1部:講演】 太田博一:千里ニュータウン「まちの変貌とコミュニティ再生」
1.千里ニュータウンの概略
・コミュニティのまとまりを考えた住区づくり…近隣住区理論
・歩車分離の住宅地づくり…ラドバーン方式
・コミュニティ交流を目指した住棟配置計画…囲み型住棟配置
2.千里ニュータウンの変貌
・近年の建て替えによる人口・世帯数・高齢化・人口構成の変化
・集合住宅の変貌…コミュニティ形成への配慮が欠如した建替え(高層化)
・戸建住宅地の変貌…居住者の高齢化、敷地分割規制、高級住宅地化
・近隣センターの変貌…小売店舗のシャッター街化、繁盛するスーパー
3.千里ニュータウンのコミュニティ再生
[2000~2010年頃] …自治会などのつながりを超えた地域改善やコミュニティ再生活動
 (例) コミュニティカフェ、ラウンドテーブル
[2010年頃~現在] …テーマ型縁づくりと地縁の再構築の動き
 (例) 行政との協働の市民交流の場づくり、コミュニティカフェの進化、
建替え後の分譲マンション内での交流の場づくり
4.まとめ
・「身近な縁づくり」として評価すべきコミュニティ活動
・課題を持つコミュニティ活動
 

【2部:意見交換】
 

はじめに

太田と申します。私は現在千里に住んでいます。かつて勤務していたコンサルタント会社は千里ニュータウンの計画に参加しました。私は担当してはいませんが、会社の先輩たちに当時の経験を聞いて勉強しました。
当時の都市計画の最先端の様々な試みが取り入れられた千里ニュータウンですが、私は、その後どのように生活がなされているのか、コミュニティがどう変化しているのか、計画されたまちのその後を観察してみようということで、15年ほど前に千里のコミュニティ活動に参加することにしました。現在は、後ほど紹介しますコミュニティ・カフェのひがしまち街角広場の代表を務めています。また、昨年度までは豊中市の複合施設で、市民交流の場を運営し交流を盛り立てようという千里文化センター市民実行委員会の代表をしていました。
元々は団地や集合住宅などの計画・設計に携わっていましたが、大切なのは、まちや団地、住宅の中にある生活、人、コミュニティだと考え、今はそのようなことに興味を持って千里ニュータウンに住んで、仕事をしたり、コミュニティ活動に参加したりしています。
 
今日は、千里ニュータウンの計画的な特色やコミュニティ再生の話をさせていただきます。千里ニュータウンは約50年前に建設され、現在はニュータウン第3世代が成人になりだしたという状況にあります。年を経てまちの姿も変わってきましたが、それとともにコミュニティがどう変わってきたのか、コミュニティ再生がどうなされているのか、などをご紹介します。コミュニティをいかにつくっていくのか、あるいは意図的につくるべきなのかは、千里ニュータウンだけでなく、どのまちにも共通するものなので、千里の例を見ていただき皆さんが考えられているコミュニティやコミュニティづくりなどについて意見交換ができればと思います。
 
この写真は、私が住んでいる新千里東町の風景ですが、このような車に出会わない道(歩行者専用道路)がまちを巡っています。小学生たちの下校を高齢者たちが見守りをしている場面ですが、これもコミュニティづくりの一つかなと思います。
 
 

図版作成:千里ニュータウン研究・情報センター

 

千里ニュータウンは、豊中市と吹田市にまたがっていて、梅田駅(大阪市北部の中心的な駅)から鉄道で約20分と都心に近いニュータウンです。東京の多摩ニュータウンは新宿から40~50分程かかりますので、千里ニュータウンは多摩ニュータウンよりもアクセスの良い郊外住宅都市といえます。

 

開発地は大阪北部の千里丘陵で、入り組んだ谷間の狭い平坦地の畑や田んぼで農業が営まれ、斜面地ではタケノコ栽培も行われていました。いまは下の写真のように大きく変わりました。

 

千里ニュータウンの面積は1,160ha、東西約4km、南北約5kmで、中央にある上新田という地区は千里の土地を持っていた人たちが住んでいたところで、ここだけは開発地から外され、昔ながらのまち並みが残っています。しかし最近はマンションなどの増加でまち並みは変わりつつあります
 
千里ニュータウンの開発の目的ですが、昭和30年代は大都市への人口集中が始まった頃で、大阪にも地方から若い働き手が集まってきました。住宅が足りないので郊外の田畑を開発していくわけですが、道路や下水も十分整備されないままに開発が進んでいくという状況でした。それでは良くない、ちゃんとした住宅都市をつくろうということで千里丘陵をニュータウンとして計画的に開発することになりました。
 
昭和30年から40年にかけての大阪府の人口の変化ですが、昭和30年には460万人で、10年後の昭和40年には667万人と約200万人増えています。年間20万人くらいの増加という状況にありました。近年を見ますと、平成15年から25年の10年間では4万人くらいしか増えていません。この数字からみても当時は異常な人口の増え方だったことが分かります。なお、千里ニュータウンの計画人口は15万人で、1975年には13万人近くになりましたが、以後それを超えることなく、現在は約9万6千人が住んでいます。
 
開発者は大阪府企業局で、千里ニュータウンは行政が主導した開発事業です。そういうことで宗教施設がありませんでした。現在は戸建て住宅地の中に小さな教会や寺などができています。
大阪大学前学長の鷲田先生は、千里ニュータウンの問題点は、お寺や教会がない、大木がない、いかがわしい場所がないことだと言っておられます。ニュータウンは健全、健康なまちとしてつくられました。
千里ニュータウンの開発は吹田市域の佐竹台から始まり、まち開きが昭和37年。ほぼ反時計回りに開発が行われ、10年間という急ピッチでまちは出来あがりました。

 

千里ニュータウンはどういった考え方でつくられたかといいますと、アメリカ人のペリーという人が提唱した近隣住区理論に基づいています。
この理論は小学校区を一つのまちの単位として、その中心にコミュニティの拠点となる小学校と教会を配置するもので、商店街は住区外周の交差点部に配置するというものでした。
しかし日本では、小学校をまちの中心に置きましたが、商店や地区センターなどからなる近隣センターも中心に置きました。小学校の隣に近隣センターが置かれたわけです。近隣住区の規模は半径500m程度で、小学生が毎日歩いて通学するのに負担がないという距離です。これは1つの小学校区を1つのまち(住区)とすることがコミュニティのまとまりが良いとした近隣住区理論の考え方に基づいています。中学校は2つの住区に1校配置されました。
3~5つの住区が集まって、1つの地区をつくり、その中央に地区センターを配置しました。3つの地区が集まって千里ニュータウンが出来ています。
このように、住区、地区、ニュータウン全体といった段階構成が考えられ、コミュニティのまとまりもこの段階構成の中で考えられています。

 

イギリスのニュータウンは職住近接ですが、千里ニュータウンをはじめ日本のニュータウンは都市に近いところに建設されたため、職場のある都市に通うベッドタウンです。
千里ニュータウンには職場(業務地区)はあるのですが、就業者はニュータウン外から通って来ており、ニュータウンに住んでいる人はニュータウン内の職場ではなく大阪の都心部に通うというかたちです。
 
公共空間は水準の高いものが確保されています。例えば道路は、通過交通を住宅地内に入れないような工夫がされており、これは近隣住区論の考え方の一つです。また、後半に開発された住区では歩行者専用道路が住区を巡る形に設けられていて、歩行者と車とを分離するように計画されています。
公園も多く、母親の見守りが必要な幼児のための公園は半径100m内に一つ、小学生が使うような公園は半径250m内に一つ、さらに住区ごとに住区の住民が利用する公園(近隣公園)があります。また3つの地区それぞれにニュータウン内外の利用者のための大きな公園(地区公園)があります。
 
住宅地のつくり方はソーシャルミックスという考え方で、出来るだけ普通の住宅地に近いかたちになるように、戸建て住宅があり、集合住宅や社宅、分譲住宅、賃貸住宅があるというように、いろんな階層の人が住めるように考えられています。ただし、そのようなソーシャルミックスがうまくいったかというと疑問があり、団地ごとにコミュニティが固まってしまったのではないかと感じます。この写真にあるように戸建てと中層住宅がコミュニティの面でミックスしているかというとそうでもなく、実態としてのソーシャルミックスは難しかったと思います。
 
住宅の水準につきましては、大量供給の求めに応じて、40m2程度の2DKを数多く確保するように計画された団地が多く、狭小でかつ設備の問題(配管などの取り換えの困難さ)がありました。一方、団地の全体計画や配置計画には工夫がされています。府営住宅では囲み型住棟配置によって中庭が確保され、住民同士が交流しやすい環境をつくっています。
戸建て住宅の敷地は100坪前後と広くつくられています。当初は都心から離れたところで鉄道駅が一つしかなかったので、戸建て住宅を購入してもらうために広めの敷地が設定されました。大阪万博が1970年に開催されましたが、開催が決まった頃から千里ニュータウンの人気が上向いて、開発後半の分譲宅地は80坪くらいの規模になりました。それにしても広い宅地が供給されていました。

 

これは千里ニュータウンの全体図です。ブルーの円は半径500mで、円の多少の重なりもありますが標準的には500m半径で住区が出来ていることが分かります。3つの地区センターには鉄道が乗り入れて都心とつながっています。

 

まちづくりでは色んな手法が導入されました。ニュータウン計画にあたっては外国の多くの先進事例を学んで導入しましたが、その一つがラドバーン方式です。
アメリカ・ニュージャージー州のラドバーンでは、歩者分離や通過交通の排除を考えてまちがつくられています。赤い破線は車が通過する道路、青い矢印の破線は行き止まりの袋小路です。袋小路によって通過交通が住宅地に入ってこないようにし、また両側の住宅地の袋小路の先には公園があり、車が入ってこない歩行者だけの空間が確保されています。
 
千里ニュータウンでは、前半に開発された戸建て住宅地と府営住宅にこのラドバーン方式を取り入れました。戸建て住宅地では、アメリカほど公共空間に余裕がないため、袋小路の先端同士を歩行者専用道路で結び、その沿道に小公園(プレイロット)を配置するようにしています。府営住宅団地では団地外周の通過交通の道路から限定された位置に袋小路の進入路があり、建物に囲まれた中庭は、人しか入れない広場として計画されました。マイカーが発達して中庭に駐車場を設けるようになり、元のかたちは崩れましたが、ラドバーンの考え方で団地が構成されていたことがわかります。
戸建て住宅の進入道路はアメリカのように広幅員ではないために進入したら出にくいこともあり、後半開発の戸建て住宅地ではループ状道路やグリッド状道路にして、車の出入りを容易にする工夫がされています。
千里ニュータウンは実験的都市だとも言われますが、建設しながら様々な改良が加えられています。

(左下写真撮影・豊中市)

 

写真は住区内道路と通過交通のための主要幹線道路が並行して設けられた区間ですが、3本の道路によって両側の住区は分断されています。一方、歩行者専用道路は緑豊かですが夜歩くと寂しい。千里ニュータウンの道路計画では界隈性ということはあまり考えられていなかったようですし、住区の中で生活が完結するように考えられていますが、隣の住区とどう関係づけるのか、また道のにぎわいをどうつくるのかといったことにも欠けています。
 
中庭をつくって住民同士が顔を合わせて交流しやすくしようというのが囲み型配置ですが、西向きや東向きの住戸ができます。これに対して建築学会からは性能の悪い西向きの住棟をなぜつくるのかとの反対意見があり大阪府との間で議論がありましたが、西側の窓に日よけを付けて対処することで収まりました。このような問題はありましたが、囲み型配置によってコミュニティを育てようという基本的な考え方がありました。当時住宅公団は南向きの平行配置を標準としていましたが、千里ニュータウンの一部の団地では囲み型住棟配置を導入しています。
 
 
千里ニュータウンの計画の特徴は、以上のような内容ですが、つぎは、まち開きから50年を経てどのように変わってきているのかについてお話しします。

 

人口は、1975年まで増加しましたが、以降は減少し、2010年までは下がる一方でした。最近の5年くらいでまた増加に転じています。
当初供給された住宅は狭く、成長した子どもたちはニュータウン外に出て行くことになり、親だけが残るという状況でした。これが1980年代から2010年ぐらいまでの世帯数の変化のなさに現れています。かつて、住み替え行動について住宅双六という考え方がありました。文化住宅から始まり、アパート、公団住宅、最後に戸建て住宅に住んで上がりというものですが、千里ニュータウンでは交通の便が良いのでずっと一か所(府営住宅など)に留まりました。環境が良いので住宅双六のようにはなりませんでした。
一方、戸建て住宅地は高級住宅地(8千万~1億円/1宅地)になり、住人は元気なうちはそこを動かないという状況にあります。
千里の後に開発された泉北ニュータウン(大阪府堺市)では、ニュータウン周辺に民間の戸建て住宅地があるためか、公的賃貸住宅から戸建て住宅に移り住むという住宅双六が成り立っていたようです。千里ではそのようなことはほとんど起こっていません。
このように千里ニュータウンでは、当初からの居住者が他に移り住むことは少なく、子どもたちが転出していくという状況が近年までの人口減少、高齢化の要因となっていました。
 
2014年以降の人口・世帯数の増加は、集合住宅の建て替えに伴う転入増によるものです。

 

高齢化率からも千里ニュータウンの特徴が確認できます。ニュータウンが出来た頃は若い働き手が住人であったのが、親が残り子が出て行くという状況になり、高齢化率は日本の平均を上回るようになっています。

 

現在の人口構成は、新しく入居した若い世代と第1世代のところに2つの山があります。
後ほど話しますが、いま千里ニュータウンでは、この第1世代と若い人たちとの融合が課題の一つになっています。

 

1999年の数値ではありますが、集合住宅は85%を占めています。このうち府営やURなどの公的賃貸住宅が約60%ありますが、URを除く公的賃貸団地の建て替えが現在活発行われています。社宅や分譲住宅はほぼ建て替えが終わっています。

 

建て替えの要因は、住戸面積が小さかったということや多くが階段室型だったためにエレベーターが無く高齢化に対応できないということがあります。設備面では、昔は配管の交換のことなどをあまり考えずに建てられていたので、改修が容易でないことが挙げられます。高層住宅では耐震上の問題があります。
建て替えがどうして成り立つのかですが、写真のように元の中層住棟による配置は低容積率の非常にゆったりとしたものになっていたため、高層にして戸数を増やすという建て替えが成立しやすいということがあります。もう一つの大きな要因は、千里ニュータウンのある北大阪一帯ではマンションの人気が高いということがあります。建てれば売れるという状況です。

 

この図は建て替えの状況を私が調査してまとめたもので、赤が高層住宅、黄色が中層です。
1980年頃は駅の周辺に高層住宅がありますが、建て替えが始まった頃の2008年に高層住宅が増えはじめ、2020年には大部分の集合住宅が高層住宅になる計画です。中層が残るのはUR団地で、URは現在のところ中層は建て替えないという方針ですので、今後も残ることになります。

 

分譲マンションの建て替え方式は、中層を高層に建て替えて住戸数を増やすというものです。増えた住戸の売却益で建て替えるというもので、元から住んでいる居住者は大きな負担無く新しい住宅に移り住めることになります。今では65m2くらいまでは持ち出し無しで新しい住宅を入手することが出来ます。少し前までは約70m2くらいまでだったので、建設費の高騰などでだんだん面積は小さくなっているようです。

 

公営住宅の建て替えは高層化によって生まれた余剰地(ピンクの部分)の売却益を建て替え費用に充てます。府営住宅の場合、建て替えにあったって一旦全てを民間事業者に売却し、完成後に戻してもらうという民活方式(PFI方式)を採っています。公社住宅の建て替え事業は民間ではなく公社が自ら行います。
このように高層住宅への建て替えが進み、公営住宅団地では公営の建て替え分と余剰地の民間分譲マンション分を合わせると元の戸数の倍くらいの戸数に増えることになります。
 
このような建て替え(高層化)が進むことについて、表立てて問題にはされていませんが、私は大きな問題があると思っています。

 

府営や公社(賃貸住宅)の建て替えでは、コミュニティ形成への配慮が欠如しています。
従来の階段室型は上り下りが大変ですが、長屋の延長のような階段室ごとのコミュニティのまとまりが出来ていました。これが建替え後には廊下型になる。階段室でまとまっていたグループが引っ越した後も近くに入居するのならまだしも、それぞれの家族構成などの状況によって住居はバラバラになってしまいます。
昔なら子どもがいたので、子ども繋がりで、階が違っていても行き来が続くのですが、今は高齢者が多いのでバラけてしまったら繋がりは薄れてしまいます。
 
また階段室型の場合は、階段が一つのコミュニティの場であり、階段を出ると広場があるというように、コミュニティのまとまりに応じて何段階かの交流の場があったのですが、廊下型だとコミュニティの繋がりが希薄になる上に身近に集まる場もないという状態です。
このように建て替えによってコミュニティの分解が始まっています。
 
広場については、駐車場設置義務(賃貸住宅の場合は住戸数の7割)があり、高層化による戸数の増加で中庭は駐車場で占められてしまっています。
建て替えにより居住環境は良くなるべきですが、そうとも言えない状態にあります。

 

分譲住宅の場合は、駐車場の屋上への広場設置よって交流の場をつくるということもありますが、階段室型のコミュニティ分解の状況は公営住宅と同様です。
また、元からの分譲住宅の建て替えの場合、従来の住人同士が新たな住人を誘って再度交流を図ろうという動きになりますが、府営住宅の余剰地に建てられたようなマンションでは、入居者はすべて新規入居者ですから、マンション内だけでなく地域との繋がりもつくりにくい状況です。
 
分譲マンションで一番問題なのは、セキュリティ重視ということです。最近のマンションはセキュリティが売りものになっているため、建物はゲーテッド化し、地域との繋がりは難しくなります。門、住棟玄関、住戸玄関など何段階ものゲートを通過しなければ入れないため、特に高齢者の孤立につながることが予測されます。

 

戸建て住宅は宅地も住宅も大きいため、独りで住んでいる場合、多くは2階の雨戸が閉まっていて高齢者世帯いということがわかり、防犯上問題となっています。また住宅地は住宅用途に純化されているため、人の行き来が少ないことも防犯上の問題です。集合住宅は駅の近くの平らな場所にありますが、戸建て住宅は駅から離れた高低差のある敷地にあり、高齢者には暮らしにくい状況にあります。
敷地規模が大きく、価格が高く、条例などで敷地分割も出来ない、2世帯住宅も建てられないなど制約が多く、土地の流通はあまりありません。外に出て行った次の世代が帰ってくることも少なく、高齢化は進んでいます。純化された住宅地ですから身近な交流の場は少なく、コミュニティを運営する力もなくなり、高齢者は孤立しがちです。

 

近隣センターはまちの中央部に配置されていますが、その理由は、千里ニュータウンが出来た当時は主婦は専業で、毎日近くに歩いて買い物に行くことを想定していました。小売店舗の多くは地主さんたちに優遇措置として分譲したのですが、分譲したことで店舗の継続は個人の事情に任され、空き店舗化が進みました。新たな事業者(テナント)を呼び込むことにも積極的ではありません。
結局、主婦は仕事を持ち、多くの家庭がマイカーで移動するようになったことで、買い物は駅の近くや郊外店で済ませるようになる。このような生活変化に店舗経営者がついて行けなかったことで近隣センターは衰退しました。店舗を分譲にしたことが、新しいアイデアや業種を取り込むことを困難にしました。
 
現在、シャッターの降りた店舗が増えてはいますが、一部は介護施設やレストランなどのテナントに貸して営業しているところもあります。住まいから歩いていけるような近隣センターのスーパーは高齢者にとっても便利なので、経営が継続できています。

<前半の質疑応答>

 

【質問】囲み型住居の居住者の評価はどうか?

 
・高層住宅は冷暖房を前提とした建物のため、案外風通しが良くありません。階段室型住棟は2方向に窓があり、囲み型配置の西向き住戸でも風が抜けたので、その方が快適だったと住んでおられた方は後で気づいたようです。以前の囲み型の方が高層住宅より住みやすかったと、移ってみて初めて囲み型住宅が良かったといった評価をされている方が多いです。
・囲みの中庭については、住民はそれまで中庭の意味を知らずに使ってました。住民が中庭の趣旨を知らなかったこと、気づかなかったことの責任は専門家にあると思います。専門家は中庭の意味やその趣旨をちゃんと伝えるべきだったと思います。
 

【質問】今回は等価方式で建て替えできたが、50年後の高層住宅の建て替えはどうするのか?

 
・購入する人は50年も先のことは考えていないと思います。ずっとここで住み続けるより、出て行くつもりではないでしょうか。次は簡単に建て替えられないことは分かっているはずです。まちがこれからの50年後に向けてどう続いていくのか問題ですね。誰も心配していないというのは、誰もそこにずっと住んでいこうと考えていないのかも知れません。
・コミュニティの問題も、自分がずっと暮らすまちという意識を持てるかどうかにかかっているのではないでしょうか。
・(質問者)将来は高層スラムが残っていくということですかね。
 

【質問】元の団地で、今後も残っていきそうなところもあるのか?

 
・公団(UR)が建てた中層は建て替えない方針になっています。
(団地計画とコミュニティ形成への配慮)
・かつての住宅団地の計画では、共用部のあり方について様々な提案がされていました。屋上に庭園をつくったり、廊下を広くしたり、中間階にも広場を設けたり。現在そのようなことが行われていないのは、購入者も共用部よりも住宅のほうが大事で、買った住宅を汚くしないで出て行こうという意識が強いのかなと感じます。コミュニティにはあまり関心がないのでしょう。
 
・(質問者)その場所で豊かな生活をしようという考えではないのですね。
・コミュニティのことに興味を持った入居者はいるんですが、集合住宅自体の造りはそのようにはなっていません。50年先までのコミュニティを考えたものではありませんね。
・(質問者)生活の必要なもの、便利なものは直ぐに手に入る立地にありますからね。


 

建て替えによって、千里ニュータウンの姿が変わりつつある中で、コミュニティ再生について色々な動きがあります。
 
2000年頃からコミュニティ交流が盛んになってくるのですが、まずはその10年間について説明します。2000年頃から2010年頃までの千里ニュータウンの社会状況としては、第1世代がリタイアし出し、現在70~80歳ぐらいの人たちが、まちに出てきだして、地域デビューが始まりました。しかし、用途が住宅に純化したまちではこのような社会変化に対応しにくいことがあり(地域の中にいつでも自由に集まる場がない)、地域の中にタイアした人の居場所がないといった課題が顕著になってきました。
また、集合住宅の建て替えが本格化してきます。自分たちが暮らす環境が変化してくるということで、地域に対する関心が高まってきた。こんなことも社会状況としてありました。
 
このような状況の中、新たなコミュニティづくり、居場所づくりのエポックとして、私が住んでいる新千里東町(豊中市域)で、「ひがしまち街角広場」というコミュニティカフェが2001年に生まれます。空き店舗を利用したボランティア運営のカフェです。
また、同じ頃に佐竹台(吹田市域)では「佐竹台ラウンドテーブル」という団地の建て替えについて地域の人たちが話し合う場が生まれます。佐竹台は、千里ニュータウンで最初に出来たまちで、建て替えも最初に始まるわけですが、大阪府公社団地(賃貸)の建て替えの際に団地周辺の住民との話し合いがつかずに膠着状態になるということがありました。これを解決するために、団地内外の地域住民が集まり、話し合う場をつくり解決していくということがあり、これも千里ニュータウンのコミュニティ再生の先駆けになりました。(このラウンドテーブルは現在も継続中)
もう一つ、コミュニティ活動活発化のきっかけになったのが2002年の「千里ニュータウンまち開き40周年」です。記念行事として、千里ニュータウンの豊中と吹田の2つの市域で市民活動をしている人たちが集まってまちづくりフォーラムを開きました。それ以降、2つの市域の市民の交流が盛んになり、その影響で新たなNPOが出来たり、公園整備の市民団体が出来たりしました。40周年での交流を機に互いの情報が行き来するようになりました。

 

ひがしまち街角広場の誕生は、新千里東町が2000年に当時の建設省の「歩いて暮らせるまちづくり構想」というモデル事業に選定されたことがきっかけです。この事業では、地域の人たちがまちを点検して、不足するものは何か、どのようなものが必要かといったことが提案しました。その中で、近隣センターの空き店舗を交流の場にしよう、という提案があり、シャッター街になりかけていた近隣センターの空き店舗を地域の力でコミュニティ・カフェに再生させることになりました。
 
新千里東町は集合住宅だけでできているまちです。集会所は各団地にあるわけですが、団地の集会所は目的が決められたり、その団地の住民でないと使うことが出来ない。使用時間も決められていて、予約が必要といった制約があります。ふらっと立ち寄れるような場所ではないのです。
ふらっと立ち寄れて、そこに行けば誰かと話が出来る、そういう場所をつくりたいということで、ひがしまち街角広場は生まれ、ボランティアが自主運営をおこなっています。
地域でいろんな活動の経験のある女性が初代のリーダーになりました。この方が子育て時代からのネットワークで女性スタッフを集めました。スタート時はその方たちの大半は60歳くらいでしたので今は70歳以上です。まだ世代交代が出来ていないという問題があります。
 
カフェは日曜祭日を除いてオープンしていて、飲み物はお気持ち料ということですべて100円です。夏になると小学生は学校の帰りに立ち寄ります。水を飲みに来るのですが、これは校長先生の公認です。水を飲んだ後は、ありがとうと言わないと叱られる。そんな躾の場でもあります。
初代のリーダーは統率力に優れ、市のいろんな委員会の委員の経験があったので市との交渉力もあり、うまく運営できていました。
しかし、その方が家庭の事情で引っ越さなければならなくなり、どのように運営を引き継いでいくかという問題が起こりました。そもそもカフェがスタートした時点では、地域の自治会連絡協議会、地域防犯支部、校区福祉委員会などの団体から人を出して、運営していました。ところが、団体の一員の役目として出てくることでは長続きしない。だんだんとスタッフが少なくなくなっていきました。その時に、先ほど申しましたように最初のリーダーの方が自分のネットワークでスタッフを集め、運営が継続できるようになったという経緯がありました。しかし、初代リーダーの引退を機に、最初の団体共同運営に戻そうという意見が団体関係者から出て、それまでの個人参加のスタッフで運営するのか、地域団体が運営の主導者になるのかでもめることになりました。一時は結論が出ず、カフェをやめようかということにもなりましたが、地域に必要なものだから続けるべきということで、議論の末、当初の個人参加のスタッフが運営することになり、現在に至っています。
 
こういった交流の場はリーダーが出てこなければ運営できないものなのか、ではそんなリーダーはどうやって見つけたり育てたりするのか。リーダーはどのように引き継いでいくのか。このような問題はコミュニティ活動の中で、常につきまとう課題です。

 

ひがしまち街角広場は、そこでお茶を飲み、しゃべるということだけでなく、いろんな市民活動団体が生まれる場になってきました。
千里の公園には竹林があります。ある日、地域の方たちがカフェでお茶を飲んでるときに、竹林が荒れたねとか、防犯上良くないね、といったことが話題になりました。それじゃあ自分たちで竹林を整備しようということになり、千里竹の会という竹林整備のグループが生まれて、市も活動を応援してくれ、今は130人くらいのメンバーのボランティアグループになりました。週に2回ほど集まって、竹林を整備したり、竹林のそばの道ばたで竹の工作をして子どもたちに教えたりしています。これは千里ニュータウンで一番大きなボランティアグループです。

 

ひがしまち街角広場をモデルにして出来たコミュニティ・カフェもあります。
場所は隣町の新千里西町というところです。こちらは本屋さんで、ご主人は40歳代です。本屋さんに人が集まって欲しいということもありますが、住民交流の場をつくりたいという想いが強くあったようです。
そこで、店舗の一部を改装してカフェ・スペースをつくり、パンなども売るようにしました。また、住民の方が韓国語や英語を教える講座も開いています。写真は店長ですが、絵本の読み聞かせもやっています。店舗を地域に開こうという試みです。
店舗の前には、商店街共用の広場があります。近くのマーケットが無くなったため、この本屋さんがこの広場で野菜の青空市を開いたのですが、他の店主から共用の場を個人的に使うなというクレームが出ました。高齢者の買い物の不便を解消しようという気持ちで行ったことですが、地域のことを思ってやっても理解されないという問題も起こります。今は店舗の軒先で青空市をやっています。
地域のことを考えて始めた活動であっても、反対意見の人も出てくる。このようなことをどう調整していくかも縁づくりの課題です。

 

これはひがしまち街角広場を拠点とする「東丘ダディーズクラブ」という子育て支援団体の活動です。
新千里東町の東丘小学校では、15年くらい前の2000年頃、1学年1クラスまで児童数が減りました。遊び相手は限られるし、友達関係も固定してしまうので、お父さんたちも遊び相手になってあげようということで、PTAのお父さんたちが集まって子どもたちと一緒に遊ぶグループが出来ました。子どもたちと一緒にピクニックに行ったり、夏祭りでお化け屋敷をしたりといったように、子どもたちが楽しめるような催しをいろいろ実践してきました。最初の頃の児童は既に二十歳を過ぎています。このグループの活動は今も現役のPTAのお父さんたちに受け継がれていて、このグループがいないと地域のイベントはやれないというほどで、小学校と連携して子どもたちを楽しませる色々なイベントを行っています。

(写真出典:佐竹台スマイルプロジェクト ホームページ)

 

吹田市側で生まれた佐竹台ラウンドテーブルについてお話します。
2000年頃に、大阪府公社の団地建て替えが計画されるようになりました。佐竹台では、公社団地の周辺地域から高層化について反対の声が上がり、建て替え計画がなかなか前に進まないようになりました。そこで建替え団地の連合自治会長さんが音頭を取って、地域のみんなで話し合う場をつくりましょうという提案をし、団地の人たちだけでなく、佐竹台に住む人なら誰でも参加できるようなラウンドテーブルを設けて話し合うようになりました。
 
誰もが意見を述べることのできる話し合いによって団地の建て替えは進むようになりましたが、単に団地を建て替えるのではなく、団地周辺や地域にとっても貢献できる団地をつくろうということが考えられました。その結果、団地外の人たちも団地の中を通り抜けることができる歩行者路や、地域に開かれたコミュニティ・カフェが提案され実現しました。
 
公社団地の建て替え完了後もラウンドテーブル受け継がれ、佐竹台の団地を建て替える時にはラウンドテーブルを開いて、佐竹台の住民は誰でも建て替えについて意見が言えるようになっています。また、団地の建て替えだけでなく、コミュニティ・カフェをつくりたいといった場合にもラウンドテーブルで議論されています。

 

写真は建替え後の公社団地の中を通り抜ける歩行者路です。戸建て住宅の人が駅に向かう時にもこの歩行者路を通ることが出来ます。建替え前も歩行者路はあったのですが、細い通路で裏道という感じでしたが、新設された歩行者路は団地の中庭を通り抜けるように計画されていて、途中には住民管理の共同菜園や休憩スペースもあります。近くにはコミュニティ・カフェがあり、団地の人たちが運営しています。団地の外の人たちもお茶を飲みに来たり、スタッフの手伝いに参加したりしています。
 これは「新しい地縁」づくりだと思います。

 

2010年頃からは千里ニュータウンの状況も変わり、コミュニティ再生のあり方も変わってきました。建て替えが進行していくなかで、コミュニティの分解が始まり、高齢者は孤立していくということが一部に起きてきます。そして、一方で若い世代の転入者が増えてきます。新旧の住民の交流がない、若い住民は地域の活動に参加しない、ということも起きてきます。戸建て住宅も一層高齢化してきますし、地域活動に参加したいというリタイア層も増えてきます。
 
このような背景があり、それまでは「地縁型」の交流の場づくりが中心でしたが、「テーマ型」の交流の場をつくろうという動きが出てきます。
豊中市側(千里中央)には、「コラボ」という愛称の千里文化センターができました。これは市の複合施設で、老人センター、保健センター、市の出張所、図書館が設置されていて、いろんな市民が集まってきます。そこで、市民同士の交流の機会を市民自らがつくろうということで市民交流のためのセミナーやイベントを企画し、コミュニティ・カフェを運営する千里文化センター市民実行委員会が生まれました。
一方、吹田市側(南千里)では、千里ニュータウンプラザという市の複合施設がオープンし、この建物の中にNPOが指定管理者となって運営する市民公益活動センターが設けられました。ボランティアやNPOなどの地域活動の相談に応じたり支援するための施設です。これは、地縁づくりの支援ということもありますが、市民が自分のやりたいことやできそうなことで地域に貢献したいという要望に応えるための「テーマ型」縁づくり支援の動きです。
 
「地縁型」の進化したかたちが佐竹台近隣センター(吹田市域)にあるコミュニティ・カフェ「さたけん家(ち)」です。本屋をリノベーションして、カフェのほかに地域住民が運営する寺子屋(子どもの勉強会)や講座を開催しています。
私が住んでいます新千里東町では地域自治協議会が発足しました。これまでの地域運営は、自治会連絡協議会、校区福祉委員会、公民分館、地域防犯支部などが個別に行い、行政に対してもそれぞれが別個に交渉していました。これらを地域の中で一本化して行政とのパイプも一つにすることで、総合的な視点から地域の課題に取り組もうというものです。
また、建て替えから年数を経た分譲マンションでは、新旧住民の分断をなくすために交流の場をつくろうという動きも出てきています。マンション内で同好会が出来たり、マンション同士が連携して高齢者の孤立を防止しようという動きも始まっています。

 

テーマ型縁づくりの代表的なものが、豊中市側の千里文化センター市民実行委員会です。カフェの運営、セミナー、談話室、講演会などの企画・運営や、屋上庭園の管理も行っています。また、夜のコンサート、まち歩きなども行っています。実行委員会は、市民実行委員とそれを支援・補助するサポーターとで運営しています。市民活動の入口、地域活動の入口として、人材を育てようという目的でつくられました。後ほど述べますが、ここにもいくつかの課題があります。

 

これは先ほども紹介しました「さたけん家」で、コミュニティ・カフェの進化版です。本屋を改造してカフェをつくりました。住宅だった2階も改造し、子どもたちが集まる寺子屋と称して中学生が小学生を教えたり、手芸教室なども開かれています。
ここを運営しているのは、子育て中やそれよりも少し年代が上のお母さんたちのグループです。カフェは毎日二人が担当し日替わりの交代制で、自分たちで考えたランチを500円で出してます。また、自費出版の本や絵葉書なども販売しています。進化版というのは、自分たちの工夫で運営費や多少の報酬を生み出すというコミュニティビジネスの考え方を導入しているところです。
ひがしまち街角広場は70歳代の方が中心で運営していますので、今後どのように若い世代に引き継いでいこうかという大きな問題があるのですが、さたけん家は若い人が若いアイデアで運営していて将来性のある活動だと感じています。

 

新千里東町の地域自治協議会は、個別の自治会では解決できない地域の課題に取り組むということで、例えば、公園の池の水草取りやアダプトロード(地域住民がボランティアで清掃活動をする道路)の共同清掃など、自治会だけでは対応できない活動を地域全体で取り組んでいます。

 

建て替え後の分譲マンションでは、新たに入居した人と建替え前から住んでいた人の交流を生み出そうということで、元からの住民が働きかけて、絵手紙やパッチワークのクラブといった新旧住民交流の場を立ちあげています。

 

これは大阪大学の大学院生がまとめた新千里東町の分譲マンションのコミュニティ活動の調査結果ですが、マンションは戸数が多いので、マンションごとに多様なサークルがあります。このようにマンション内では交流が盛んになってきていますが、地域との交流についてはまだまだ活発だとは言えません。
ただし、高齢者の孤立を防ごうという動きが活発になりつつあり、マンションの老人クラブを連携する老人クラブ連絡会という団体が生まれました。マンションの老人クラブは、2009年には2団体だったのが、今は7団体になりました。全部で12のマンションがあり、残りのマンションでもクラブ設立の動きがあります。老人クラブ連絡会では、行政も校区福祉委員会も(個人情報保護のために)つくることができない高齢者リストをつくろうとしています。

 

千里ニュータウンでは最近、「縁」をテーマにしたシンポジウムが開催されました。地縁や志縁(テーマ型縁)で支え合おうという趣旨です。これは、集合住宅の建て替えや新たな転入者増に伴ってだんだんと地域の縁が薄らいできている千里ニュータウンの課題を踏まえて、新たな縁が必要ではないかという住民の想いがあることを示しています。

 

このような中で、評価できる活動の例として、書店の中にカフェをつくった「笹部書店」と若いお母さんたちが運営する「さたけん家」を挙げることが出来ます。
これらは地縁づくりだけでなく、地域の人たちが講座を開くなどテーマ型やコミュニティビジネスのも取り入れています。リーダーとそのグループが若いことが柔軟な考え方に繋がっているのだと思います。
 
もう一つは、小学校のPTAやそのOBのお父さんたちでつくる「東丘ダディーズクラブ」です。子育て支援がテーマですが、親たちも繋がり、地域とも繋がっているという集まりです。
メンバーは現役で仕事をしている40代、50代のお父さんたちなので、社会との繋がりもありますので、客観的な視野を持っているといえます。若いときから地域に居場所を持っていたいという考え方がベースにあります。自分たちの親を見て、母親は老後も活発に地域と繋がっているが、父親は会社を辞めた途端に自宅に閉じこもりがちになるを見て、自分たちはそうなりたくないと考えているようです。このグループの活動は子育て支援であり、また父親たち自身が交流し楽しむ地縁づくりの場でもあります。
 
テーマ型の縁づくりの課題の一つは運営の難しさです。
千里文化センターで市民交流活動を行っている市民実行委員会は、テーマ型の縁づくりの場として立ち上げられ、実行委員が好きなこと、得意なことをテーマにグループをつくり、地域の人を対象に講座や談話会を行っています。
しかし、そこに参加する市民はだんだんと固定客になり、新しい人が入ってこないという状況になっています。テーマ型というのは、閉じられた同好会のようになっていきがちです。
当初は、地域の人たちが講師になって得意な分野の話をする講演会をやっていたのですが、地域の講師だけでは大勢の参加者を集めることはできない。結局、名のある人を講師に招くようになり、縁づくりというより集客が目的になってしまっています。
こんなことから、テーマ型というのは閉鎖的になっていく傾向があり、難しいなということを実感しています。
 
もう一つ気づいたことは、サラリーマンをリタイヤした男性は肩書きを欲しがる傾向があるということです。それが行政との協働ということになると、行政の後ろ盾を特権的に考えたり、肩書き的に考えたりする人も中にはいます。千里文化センターの話ではありませんが、市の承認を得ているボランティア団体のメンバーが、自立して活動している団体を低く見るという場面を経験したことがあります。会社組織の延長の感覚で地域に関わろうとする男の人たちは難しいです。
 
ひがしまち街角広場スタッフの方たちは、かつての子育て時代の地縁で集まっておられるので、若い母親世代とのつながりが薄く、高齢化と世代交代の難しさという課題を抱えています。昔からの地縁で今後カフェを継続していくのは難しいなと思っています。さたけん家のようにコミュニティビジネスの考え方などを取り入れた継続性のある活動の重要性を感じています。
 
意見交換の前に、課題を整理しておきます。
 
1)コミュニティやコミュニティ交流というものは、わざわざつくるものなのか、できて来るものなのか
2)組織や団体が生まれるときにはリーダーが必要だけれど、引き継いで行くには最初のリーダーとは違うやり方やエネルギーが必要なのではないか。活動を引き継ぐにはどうしたらよいのか
3)集まって話し合う空間(縁づくりのための空間)は重要で、公共施設の会議室だとまさに会議になってしまう。コミュニティ交流の場所として相応しい空間というのがあるのではないか。

 

意見交換

 

(進行)講師から示された課題について会場からの意見を求めます。
 

【討議課題】活動の継続、リーダーに必要なこと・・・

・徳島県建築士会は代表交代も活動も順調に継続されているようだが、必要なことは何か?
・まち並み研究会は私が初代会長だったが、何代か続けていて、そろそろ交代しようかということで交代した。交代は個人を指名して継続しているが、活動は問題なく継続できている。
(太田)コミュニティ活動は、背後に様々な条件や利害などがある。団体の目的と構成員の意識が明確に繋がっている団体活動とコミュニティ活動とは単純に比較できないように思う。
(太田)コミュニティ活動で、最初に始める人は意欲に燃えてスタートを切る。しかしそれを引き継ぐ人はそこに生まれた知名度や肩書きなどに引き寄せられることがあり、そうなると状況を改革することは難しくなってくる。
(太田)最初のリーダーと、引き継ぐリーダーは役割が違うし、違った工夫が必要である。
・徳島の新町川を守る会は、リーダーの想いに引っ張られて多くの人が動いているが、リーダーがいなくなったら継続できるのだろうか。こういった活動というのは多いと思う。
 

【自由討議】

 

《活動の目的を見失わないこと》

・団体として参加した場合には自分の持分だけこなせばいいということで、何も出来ないまま終わってしまうことが多いのだが、目的達成に近づけるには、自分の持分を超えなければならないことがある。
(太田)やっていることの目的を、どう伝えるかが重要。テーマ型の場合、自分がやっていることに入り込みすぎることが多々あるが、何のためにやっているのかに気づいてもらい、そこに戻すという役割が必要だ。活動の目的を伝えていくような役割が必要なのだと思う。
 

《専門家の役割》

・住民の会議に、コーディネート的役割で助言などすることはあるのか。
(太田)市の予算が付いているような市民活動は、継続的に活動できるが、行政と住民の関係だけだと、もたれ合い的になりやすく、活動の障害、停滞になりやすい。住民でも市職員でもない第三者の参加が必要だと思うし、そのような意識で活動に参加している。
・そこに専門技術者の参加は必要とされているのか。技術者の役割、入り方や距離の取り方は。
(太田)従来のコンサルタント的な参加だけでは地域の人たちが受け入れてくれない。地域の課題の本質に入り込み、自ら事業(コミュニティビジネス)も行うなどの持続的な活動を伴った参加が必要になると思う。
 

《大学の役割》

・今後は大学の役割も変わって来ると思うが、どうか。
(太田)ひがしまち街角広場は卒論などのための調査に来る学生が多い。見学やアンケートをして整理して論文にまとめて終わりということになってしまうが、その現場に入って何らかの行動を行い、その結果がどうかといった積極的な研究もして欲しい。
・学生の将来の技術として身につけたいようなことをそこで学ぶ、そんなことか。
(太田)地域の人とどう交渉するか、どう説得していくのかということ。いま大学生と一緒に小学校の創立50周年記念の絵はがきをつくっているが、これは、自分の能力を地域が必要としていることで試す貴重な経験だと思う。そんなことを地域に入ってやって欲しいと思う。
・今日は高知工科大学と香川大学から学生さんの参加があるが、大学からのご意見を・・
・コンサルタントに就職する学生はいるが、地域コミュニティの分野でコンサルタントの内部で立場を築くのは難しいだろう。まちづくり系のコンサルタントの就職も少ない。
・大学の研究室で何かできるかといえば、論文を書くため、コミュニティというテーマは扱いが難しい。アカデミックな価値そのものからつくり直すことから始めなければならない。工科大には地域連携機構というのがあり、アカデミックな価値ではなく地域連携で地域への貢献を目的の組織があるが、そういうところなら出来るかもしれない。
・今後こういった分野に入ってくる専門家というのは、これまでと違う分野になるのか。
(太田)既に建築、都市計画という分野の対象そのものが変わってきている。大阪大学の建築系の卒業生をみても、コンサルタントなどではなく鉄道会社や電力会社、ガス会社などに就職して、設計会社に仕事を出すような仕事をしている人が多いように思う。一方で、これからの仕事としては、地域の中に入って、建物を建てるだけではないような仕事も必要になってくるあのではないか。例えば、千里ニュータウンで私が所属しているグループ(千里ニュータウン研究・情報センター)では、地域の方たちの話を聞いていろんな媒体を使って表現・発信するという地域の広告代理店のようなことをしようとしているが、建築系の学生は図面や写真での表現がうまく、まちのことをPRすることに長けている。そんな能力も育てながら、ものをつくることのほか、人の話を纏めて伝える仕事があるだろう。そんな経験を重ねることで新しい職能にもなってくるのではないか。
・香川大学でもこのようなコミュニティの研究はしているか。
・いま被災地でコミュニティの形成を支援しています。先ほどの話のように、最初リーダーが出てきて動きだしたところに、自治会が出来たとき、自治会は市役所にお墨付きをもらっているということで、そこに対立が起こる。  そこで、互いにどのような考えを持っているのかを話し合う場を設けている。相互の言い分を少しづつ解きほぐしていかないと歩み寄ることが出来ない。  では、我々が入っていったから何か大きな動きがあったのかといえばそうでもない。ただし入っていくことで、自分達を見ている人がいて、応援しようとしている人がいるんだから、もう一回やってみようか、ということになる。そうしたことでコミュニティが何とか続いているのかなと思う。  では次に、継続するのかなということについては、非常に難しくい。若い人たちは、自分たちの生活が精一杯という人たちが多いので、そういったコミュニティ活動は受け止められてはいない。では、どういった活動をしているのかといえば、いろんな人たちが集まるイベントで、若い力が必要だというところに参加し、この人たちが何を求めているのか、かなり高齢化しているコミュニティになぜ若い人たちの存在が必要なのか、こんなことを生で体験してもらっています。  そんな中で本人達は、この活動は行った方がよい、この活動は行かなくてはならない、これはすごく大事な場面ですよ、など大切なことがドンドン分かってくるようになってくる。  昔、自治会長さんにお話を聞くなど公営住宅の団地のインタビューなど短い時間でお話を聞くことはやったことはあるが、そこでは得られないようなことが流れの中で出てきている。それを私たちは理解していて、どういうことが、どのような場面で出てきて、どういう風に支えていくことによって、変わっていくのか、そんなことが掴めたらという風に思っている。
(太田)千里ニュータウンについても大学生や院生が研究していますが、卒業したらその研究が終わるようなところがある。先生の方もいろんな方が研究するが、継続してやっているわけではなくて、一つのことについて研究が続いているということはあまりない。
・香川大学での調査は、今年が5年目になるのだが、先輩から後輩に受け継いで繋がっていくように行っている。
 
 

《コミュニティの交流の場》

(太田)今日のようにタタミに座って話すのと、会議室で腰掛けて話し合うるのでは、話の進み方が違うと思う。話し合いの空間によって、話の進み方やまとまり方が違ってくるのではないかと思う。
・酒飲まないと本音が出ないということもある。
(太田)ひがしまち街角広場は、机も椅子も全て頂き物でつくったもので、建築家の臭いのないもの。自分たちで椅子やテーブルを集めて、自分たちでつくった場所の方が愛着が湧いて使いやすいのではないか。  しつらえられた場所に来て、話しなさいというのでは、会社の会議のようになって、話が前に進まないのではないかと思う。場も自分たちでつくるということが大切かなと思う。  空間が持っている話しやすさというのもあるのではないか。
 

《千里ニュータウンに寺や神社がないということ》

・寺とか教会がないというのはつらいのではないか。
(太田)小さな寺は戸建て住宅地に出来たが、法事の時に近くにお坊さんがいないので、どんな宗派でも来てもらえるというお寺である。  神社は開発地の中には無いが、ニュータウンに隣接した昔ながらのエリアにはある。
・日本のコミュニティは、神社の氏子や寺の檀家として繋がっていたのではないか。
(太田)千里ニュータウンでは子どもが自分たちの地域のことを知るには家庭の中では難しいので、地域のことを知るために地域の人たちが子ども達にまちのことを伝える必要があるのではないかと思い、計画されたまちの暮らしの歴史を収集し発信しようとしているところである。元阪大総長の鷲田さんが言うのは、精神的なものが伝わっていないということだろう。大木も、神社も、怪しい場所も精神的なもの。暮らしの中の精神的なものを千里ニュータウンの中に見出していかないといけないのではないかと思う。
 

《千里の「絵はがき」について》

・ここで生まれた人はここが故郷になっている、故郷を想う記念のようなものということを聞いたが、詳しく説明して欲しい。
(太田)千里ニュータウンは地方から集まってきた人でできあがったまちであるが、ここで生まれた人も既に50歳になり、ここで生まれ育って離れた人にとってはこのまちが故郷になっている。盆正月には孫を連れて子どもが帰省してくるため、かつては帰省していた第一世代の人たちはこのまちで子や孫を迎えるようになっている。  かつては、いつかは故郷に錦を飾ろうという意識があったが、子や孫が故郷として千里に帰ってくるので、もう一度、子や孫が帰ってくる故郷としてこのまちを見直してみようという動きも出てきた。
・千里ニュータウンへの新しい入居者との関係はどうなのか。
(太田)若い入居者には自治協議会の議論の場に入ってもらうようにしている。
・若い入居者は、既にあるグループやカフェには入りにくくないか。
(太田)若い人は、高齢者が活動するグループには入りにくいし、カフェの見た目の影響も大きい。さたけん家のようなに若い人向けのデザインであれば若い人は入りやすい。
 

《住み開き》

(太田)大阪大学の男子大学院生が自分が住んでいるワンルームマンションの部屋で「住み開き」をしていた。そこで近隣の人との交流を学んで、団地の中で繋がりをつくる企画会社に入社した。UR(旧住宅公団)は、このように集合住宅のコミュニティをつなげることを企画する会社に仕事を発注している。そういうプロの道もある。住民が出来ないイベントを支援している。建て替えなどに向けて住民同士の交流の下地づくりをするのも仕事の一つになっている。
 

《神社、寺がないこと》

・計画で神社や寺をつくるのを忘れたのは欠陥。徳島では、集落ごとに神社があり、神社の境内には舞台があり、舞台で人形芝居をする。そんなハレの場があった。
(太田)千里ニュータウンの真ん中に残されたの既存集落には山行きという行事があった(里山の恵みに感謝するために集落総出で山に登ってごちそうを食べる行事)。その祭りをニュータウンで再興しませんかと自治協議会に諮ったところ、それは宗教行事ではないかという意見があった。寺や神社のないまちに長く住んでいると、こんな感覚になってくるのかもしてない。精神的な芯になるようなものの必要性は強く感じる。
 

《病院はコミュニケーションの場なのか》

・病院に高齢者のコミュニティはできていないのか。高知に住んでると病院の待合室がお年寄りの交流の場になっているのを感じる。
(太田)近隣センターに診療所があるが、そこで井戸端会議が出来るような場所ではない。
 

《これからの活動予定》

(大阪)「まちの小さな広告代理店」をやろうかと思っている。地域の人が地域の情報をあまり知らない。まちをつくった人が、このまちはどんな考え方でつくったのかを伝えてこなかった。それが一番大切なことだった。そういった情報があれば、自分たちはこのまちの何を伝えていくべきかを考えることが出来る。これまで私たちのグループでやってきたことは、第一世代にインタビューをして、どんな住まい方をしてきたのか、どこから来てニュータウンに住んだときはどんな気持ちだったのか、そんな情報をこれまで集めてきた。これからはこのような情報を発信しながら新たな地域の情報を集めていく予定。また、絵はがきをつくるとか、地域の情報を集めて発信する仕事が出来ればいいかなと思うし、やろうとしている。
 
・エリアも広く住民相互の集まりも難しいと思うが、地域全体で行う活動はあるか。
(太田)2つの市の様々な分野で地域活動をしている人たちが集まり情報交換する場が15年ほど前に出来た。しかし、最近は情報交換というよりイベントのための会になっているように私は感じている。相互の活動を結びつけたり、活動の情報交換という目的はだんだん薄れてきた。当初は、他の活動に学び、刺激を受けながら、自分の地域に新たな活動を生み出したり変革していこうという場だった。これが千里では一番大きなグループではあるが、残念ながら、それぞれの地域で行っている活動の情報を交換する場ではなくなってきている。9万数千人のまちを一つの団体で情報交流のネットワークを張り巡らすことは困難なので、1住区8千人くらいの単位で地域情報の纏まりを考えるのが適切だと思う。活動の内容に応じた範囲というのがある。
・自治会に入っていない新しい入居者も情報があれば何らかの行動が起こりコミュニティもできるのではないか。
(太田)先ほど説明した地域情報の本千里ニュータウン紹介の冊子は、まちごとに情報をまとめたので、それをもって一緒に歩きましょうといところから、新しい入居者にまちの物語を伝えることが出来ないかなと考えている。以前は市と協働して地域情報の発信事業を行ったが、市と一緒ということはその資料の使い方や内容までいろいろと規制が出てくる。やはり自分たちの責任で情報発信するのが良いと思う。
 
(会議記録制作:大西泰弘/有限会社田園都市設計  2015.09.20)
 

 

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